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今日届いた日歯広報に新執行部の役員名簿が載っています。そのなか最年少「学術、生涯研修担当常務理事」はわが大学ラグビー部同級中島信也くんなのです!
私たち「歯科医政なんて自分とは無関係、まるでキョーミなし。我々臨床歯科オタク」とは全く異なる生き方ですがここまで登り詰めればこれはもう天晴れというしかありません。これから彼の天性のキャプテンシーを発揮して日本歯科医師会を牽引して行くに違いありません。また秋田県歯科医師会藤原元幸新会長も私たちのラグビー部10年先輩なのです。いやはやめでたい。祝賀会をしなくては!!
30年程前の秋田八橋ラグビー場にて、
左:「小指が折れた」、右:「左目腫れた」、中:「まあまあ」ってとこか。
20歳そこそこの頃、髪の毛が多いなあ、、、
書店でこんな雑誌が眼にとまり思わず買ってしまいました。
1980~81といえば私が進学課程2年〜専門課程1年(大学2年生3年生)のシーズンですから、私自身のラグビー熱中時代が日本のラグビーシーンが最高に盛り上がっていた時代なのです。表紙の日本選手権は同志社必死のタックルも届かぬ松尾雄治のスキルフルなプレー、そして周囲は赤いジャージの分厚いフォロー、、、両者の歴然とした力の差を、国立競技場でこのカメラアングルと反対側のバックスタンドからみていました。
ラグビーは年中長袖でごついジャージ(でも襟を立ててかっこつける)、ボールは革製で一年生が唾をはきかけながら光るまで磨くもの(汚ったね〜)、スクラムハーフはダイビングパス(いまどきみんなスピンパス)etc. 他にもあげたらキリがないですが、私のラグビーは1980年代(もはや30年も前!)に封印してあるので、これから出版されるこのシリーズにぴたり一致するのです。きょう日のパツパツの薄手半袖ジャージでのラグビーはよくわかりません。
〜世界No.1のFB「赤い悪魔」のJPRウイリアムスに壮烈なタックルを見舞う石塚:昭和50年9月21日 日本vsウエールズ〜
「ウエールズは力一杯日本選手を蹴散らし、踏みつぶすのが国際試合の礼儀だといわんばかりにスタートから一気に襲いかかった。彼らが突進したあとに必ず日本選手が地にうずくまるシーンが連続した。82-9の記録的な大差がついて、ファンは重苦しい絶望感に襲われて声もでなかった。そのなかでただひとり、死に物狂いのタックルを続ける小さな男ー石塚だった。ハイライトは後半。100m10秒代の足を持つ世界一の俊足ウイングJJウイリアムスが左サイドを快走してゴールへばく進した時だ。するするとそこに近づいた石塚の小さな姿にはじめ気がつくファンも少なかった。気がついたとしても所詮は無駄な抵抗にすぎない。身体が足が全てが違う、、、。が、石塚は追った。そしてゴール寸前、まるで豹のようにみをかがめてウイリアムスに飛びかかったのである。バックリ横倒しになったウイリアムスが自分の腰にくらいついている小さな男を意外な顔つきで見直したのと、大観衆が爆発したのは同時だった。このひとつのプレーで惨敗は救われた。感極まったファンは試合後、グラウンドになだれ込むと石塚めがけて殺到し、その身体を持ち上げると勢いよく宙に放り投げたのだった」
〜「熱闘!早稲田ラグビー:荒ぶる魂の記録 」昭和52年講談社荒ぶる編集部 より〜
30数年前、私はこれ↑を読んで感動したのです。石塚氏は169cm70kg,チビな私とそう変わらない、なのに190cm95kgのJPR(外科医にしてウエールズ代表FB)を倒すのだからこれには憧れました。自分も「背番号7」になるしかない!当たり負けない強い身体を作るために人一倍のウエートトレーニングをしたのも、個人練習「千本タックル」もそのためだった。JJをタッチ際に追い込みタックルにはいった連続写真を何度も何度もみて走るコースを研究しイメージトレーニングをしていました。(今にして思えば恐ろしくアナログ!)
その元ラグビー日本代表石塚武生氏が突然死症候群で亡くなられたそうです。享年57歳。ご冥福を祈るのみです。
朝、テレビをつけると「はなまるマーケット」にウイーン少年合唱団がでていました。
*ウィーン少年合唱団:(de:Wiener Sängerknaben)1498年神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世により、宮廷礼拝堂少年聖歌隊として創設された、500年あまりの伝統をもつ少年合唱団である。~中略~少年たちは早くから堅実な音楽教育を受け、ほとんど場合にその後の人生に重大な影響を受けている。そのため、彼らの多くが職業音楽家として活躍するようになった。歴史上の作曲家では、ヨーゼフ・ハイドン、ミヒャエル・ハイドン、シューベルト、ブルックナーなどの出身者・関係者がいる。
ソロで歌って拍手喝采されインタビューされている日本人の男の子、それはなんと現在神奈川県歯科医師会社保担当理事にして東京歯科大学同窓会常任理事という重職で活躍している私の大学ラグビー時代の同級生N先生の子息、Shintaro君なのです!
数年前オーディションに合格し単身ウィーンに渡り、少年合唱団の一員として世界各国を公演しています。日本へも「帰国」ではなワールドツアーのなかのひとつ、ということになるのでしょう。もちろんそうなりたくても誰にでもなれるもんではないですが、両親にしてもこんな小さな愛息を外国に行かせるにはさぞかし葛藤もあったでしょう。私には無理かも、、、心配でついて行きたくなるやもしれません。
今回の日本ツアーでは、4・24~6.14まで各都市で公演するそうです。
★Shintaro君からの日記★ ~写真ともHPより~
そのお菓子を持って来る友達は、僕のことです!
僕は日本人なので日本へ行くためのビザはいらないし、その為の写真を撮ることもありませんでした。
僕は、合唱団の仲間たちと一緒に、僕の国の歌を歌うのがとても楽しみです。
時々仲間たちに、正しい発音を教えてあげることもあります。
まだパーフェクトではないけれど、だんだん良くなってきています。
もちろん、僕が一番楽しみにしていることは、僕の家族や友達に会うこと。
もうすぐ復活祭の休暇になるので、僕は日本ツアーが始まるまでの日々を家族や友達と過ごせるように、他の仲間よりも早く日本へ帰る予定です。
20数年前の結婚披露宴では新郎新婦が「愛と青春の旅立ち」のテーマを歌いながら入場するというディナーショー仕立てで驚かされたものです。その両親の息子ですから血は争えないとはいうもののよもやこんな「世界レベル」とは!ウィーン少年合唱団は声変わりする年齢になればリタイヤだそうですが、そう遠くない将来帰国後Shintaroくんがどんなすごい声楽家か音楽家として世界で活躍するのか他人である私まで楽しみです。
左'82 ボールもって突進する鉢巻小僧 右’09のオヤジは わがブログ友「熊本天草の名門3代目」の実弟にして、東歯ラグビー部4年後輩の永野正司先生(旧姓松田)。昔、俊足ウイングとしてわが東歯ラグビー部第2期黄金時代を支えたトライゲッターでした(ほんと)。ちなみに左の寝ている相手を飛び越えているのは同級生である天草の兄貴からきいて弟を勧誘した現在岡大医学部T教授です。右のオヤジの体躯なら私とフォワードバックス交替だな。卒後は糸魚川にある八重洲のK先生奥様の実家に婿入りされてその後大ブレークしています。そういえば以前彼のおかげで糸魚川歯科医師会で講演させてもらい老舗料亭でごちそうになったこともあったっけ。それについ先週も糸魚川から金沢へ越してこられた重度歯周病の患者さんを紹介していだいた矢先のことです。私には珍しく愚妻と富山のDデパートをブラブラしていたらなんと彼のご一家とバッタリ会ったのです。ありゃ〜、なんでお前こんなところに居るの?いかんせんわが愚妻が顔出しNG写真撮影拒否につき全員写真はなりませんでしたが、彼が尊敬する熊本の父上の名前をひと文字もらった愛娘と。美人奥様によれば、私と同様彼もデパートとかごく稀なんだとか。いやはや驚いた。
1984年冬、雨の稲毛グラウンド。まん中ボールを持って走っているのが24歳(!)当時の私。水色ジャージはレフェリーでそれ以外追走してくる全員泥ネズミで敵も見方もよくわかりません。敵陣10mライン上「まきの〜左〜(にフォローがいるよ)!!」という声が耳にはいりました。右からタックラーが来ているものの私はパスする気などさらさらなく、あと40m逃げきったら田んぼのようなインゴールにダイブです。
今頃なぜこんな写真なのかというと、昨日の計測で実に25年ぶりにこの日の体重に戻ったのです。当時は当り負けしない強い肉体を作るためにと意図的に毎日どか食いに加えて粉ミルクまで呑んでいました。運動量がそれに勝ってか体重は思うようには増やせませんでしたが、肉体にも精神力にも自信がありました。こんな激しい運動を毎日しなくなって以来25年間、増えた体重は4kg。(でも意外と少ないでしょ?)
さる2月の人間ドックでイエローカードをもらってから、血糖値をセルフケアする決意をして「毎日満腹、休肝日なし」を止め「腹7分目、週に6日休肝、片道7kmの徒歩通勤を週に3日以上」を決めました。それらを守ること2ヶ月ちょっとで4kg減量しました。糖尿病なんぞちょっとご勘弁願いたいのでもう少し続けるつもりです。でも体重のことよりも呑み食いをセルフコントロールできるようになった自分を褒めてあげたい(少し前までできなかった)。重度糖尿病なのに食事の量を我慢できないひとというのは、脳の海馬に障害をきたしているのだそうです。できる間は救われるのです。煙草も同じかな。
血糖値やら薄毛やら、ジジイみたいな話題ばかりで全く困ったもんです。
昨夜のK-1レミーボンヤスキーのフライングミドルキックには久々にしびれ惚れ直しました。今朝は先週からの雪も終わり雲ひとつない青空、太刀魚釣りに行きたいなあ、ヤリイカも釣れるかなあ、、、でもやむなく大事をとってラグビー早明戦に専念することにしました。
素晴らしいゲームでした。両チームとも深いラインからスピードに乗ってパスに走り込むBK、それに突き刺さるタックル。緊迫感あふれる非常にいいゲームでした。やはり「ラグビーはタックル」なのです。大学選手権出場ができなくなった明治は今期最後のゲーム。入魂のアタックで点差が開いたため早稲田の猛追も一歩及ばなかったものの、さすが早稲田バックス、ここぞという時のスピードや展開力は素晴らしかった。やっぱりラグビーのタイトなゲームほど面白いものはありません。(写真はありません。あしからず)
昭和時代 ザグレートカブキというリングネームでヒールとしてアメリカで大ブレークしたプロレスラーがいました。顔に歌舞伎の隈取りを真似た奇怪なペイントをし技らしい技はあまり出さないながら危うくなると赤や緑の「毒霧」を相手の顔に吹きかけて反則負けになるのが常でした。そのカブキが引退後東京飯田橋で経営している居酒屋で記念Tシャツと焼酎ボトルにサインもらいプロレス大好き少年にかえったのが4年前のことでした。
その後、年に何度も上京するのになかなか機会がなかったのですが、かつての監督キャプテン女子マネにつきあってもらって行ってきました。
現在はもの静かで朴訥とした感じの普通の居酒屋のオヤジですが、手が空くと愛想にきてくれます。カメラを向けるとこんな顔を作るのはエンターテーナーなのでしょう。
たぶん同じ質問をされるであろうことにも面倒くさい顔もせず丁寧に答えてくれますが、なんといっても驚くのは「最高の思い出といえば、アメリカテキサスで12万人(!)の観客の前でケビンフォンエリックとやった試合」ということなのです。
現在は「少し身体のごついおじさん」でしかないように見えますが、巨大なアメリカ人レスラーに椅子でぶん殴られたり鉄柱攻撃で流血させられたりしながら、「死なずに」全米を熱狂させていたのは一体どんな身体の作りになっているのでしょう!?
エリック兄弟やあの超獣ブルーザーブロディーをぶん殴った拳骨をみせてもらいました。
左端がカブキ、右端が私の拳骨。やはり全然違う!
小さい頃から患者さんだったI君が出ている砺波高校vs富山工業高校の富山県大会決勝を楽しみにしていました。これが我が子なら休診しなければならないところでした。
試合といえば相手FWの強さやBKの走力ばかり光り、最後は83対5のワンサイドゲームとなってしまったものの、生涯2度とない自身に誇れる舞台でしょう。うらやましすぎる!
「もう一度男に産まれたら、魂の一番熱い時期にぜひまたラグビーをやりたい」というTDCRT記念誌の拙文を思い出しました。
元慶応義塾大学ラグビー部監督上田昭夫氏の講演会「リーダーシップとチームワーク〜強いチームは個々の強化(スキルアップ)から〜」が高岡で開催されると知り、慶大を’85日本選手権優勝、’00学生日本一に導いた監督だから「強いチーム」作りに何らかのヒントをいただけるはずだ、と期待していました。
http://wwwx.fujitv.co.jp/zoo/blog/index.jsp?cid=199
父上は東京歯科大学の公衆衛生学教授で教科書は著作でした。また私が学4のわがTDCRT最強だった頃は慶応大学上田昭夫監督の時代。慶応の2本目(2軍チーム)と練習試合に日吉Gへ行った折、合宿所で姿をみかけたものでした。想像どおり快活で熱い人、チビな私より身長が低いことはなんとなくうれしく(?)思えるものの、あの根底に自信が漲るようにみえる元気な姿は、おそらく巨漢外人ラガーメンにもたじろぐことがなかったことが裏付けなのだろうな、と想像していました。
優れたリーダーは話し方が明快「結論を先に言おう」
メンバーのやる気をあげるために「欠点ばかり指摘するのではなく加点主義」「必要性を感じさせるよう仕向ける」「パスの仕方を教えるのではなく、意思表示させる」
コミュニケーションのスキルとして「ミスがあったとき検証してあげる」
修正能力の高いチームが強いチーム、そのために「順応できるディスカッションを」
その他いくつかのヒントをいただきました。
新しい年を迎えました。
大晦日のアクセス数過去最高を更新に気をよくして古い話を少し続けます。
25年前の夏。毎夏300チームものラグビーチームが集う菅平で強化合宿を行っていました。
その年たまたま同じ民宿で韓国の延世大学チームが宿泊していました。日本でいえば慶応義塾大学のようなステータスの大学ときいていましたが、あまり多くはない部員だしそうたいしたことはないだろう、よく日本まで合宿になんか来るよなあなんてタカをくくっていました。ところがこのチームが強い強い。練習試合をみていたらちょうど菅平にきていた早稲田、明治、日体大全ての1本目(一軍)に連戦連勝するのです!最後に土をつけたのが当時日本選手権連覇を続けていた新日鉄釜石のみだったのです。よくよくきいてみるとオール韓国を何人も擁する超強豪、強いはずだ、、、。我々の延世大学に対する態度が急に変り、ある者はキックを教わりある者はスクラムの姿勢をみてもらったりとなりました。スタンドオフはスパイクを脱ぎ裸足で両サイドのタッチライン上からバンバンゴールキックをいれて見せてくれました。ジャストミートしたらこんなんだよ、と。これには驚きました。
その中のひとり「ブン ニンテイ」という名前の学生と私の顔が似ていると誰かが言い出しました。しかも奇しくも私と同じ背番号7、右フランカー。これは面白いから一緒に写真撮れ、と。
これから試合に向かうというのにみんなで「ホントに似てる」なんて白い歯を見せて笑っています。身長はこちらが低いが胸や太腿の充実はやや優勢かな。でも穏やかに笑っていた彼はこの後のゲームが始まるやテロリストに豹変しもの凄いタックルを相手にバシバシきめまくっていたのでした。
この冬のヤリイカ初物です。俎板のうえでまだ動いています。
身は刺身、ゲソとキモは塩焼き
お金では買えないこんな超贅沢な昼食を済ませ、ラグビー早明戦を待ちました。
ジャパン不動のフッカーだったメイジの藤田剛HC、清宮マジック、いずれでもなくラグビー指導者としては無名に近いかもしれない中竹竜二監督を昨年から応援していました。ワセダといえば昨年の矢富そかべのハーフ団が素晴らしかったので今年どうなるのかと心配していました。ところがさすが早稲田、素晴らしいチームに仕上がっていました。ハイパントの落下点に狙いすまして突き刺さるタックラー、メイジのサイドアタックに溢れるディフェンス、走れる巨漢FW,そしてなによりグラウンド横幅目一杯揺さぶるBKは格好良すぎでした。特にNo.8,一年生SO,Full Backといわゆる縦のラインのできはほんとによかった。
メイジのSOも一年坊ですがかのトヨタSO田村Jr.というではないですか。また解説の慶応OB浜本剛さんのJr.も慶応でタイガージャージを着ているのだとか。史上初ジャパンの有賀親子といい、い〜な〜。
2003年12月、日本人の外交官奥克彦氏がイラクで銃撃されたというニュースで、早稲田ラグビー部OBという文字をみたとき、以前ラグビーマガジンに連載されていた「オックスフォード通信」の筆者だ、とピンときました。
奥氏も宿沢氏同様、ラグビーだけのひとではない。高校ラグビー花園出場〜早大政経学部入学ラグビー部〜外務公務員上級試験合格〜オックスフォード大学留学、ラグビー部で日本人として初めて公式戦出場 とまさに文武両道なのでした。奥氏の天性の美点のひとつは国籍問わずだれとでもすぐに親しくなれること、イラクでわずか半年の間に,アメリカ人英国人オランダ人イラク人、、、どこへ行っても友達がいて周囲は驚かされたそうです。いろいろなひととのつながりをつくってゆくコミニュケーション能力が抜群なのです。
奥氏がテロリストの目標リストに載っているといわれるなか、イラクでの外交官としての活動で強い意志を表わす象徴的な言葉は「日本人が口先だけの国際貢献を唱える連中なのか、リスクを冒してでもイラクを助けようと思っているのか、ここは正念場です。ラグビーに例えれば口先ばかりで全くタックルにいかない連中と試合をしているようなもので信用以前の問題。大胆かつ繊細にやろうと思っています」でした。でも奥氏は英雄ぶって死んだのではない、自分のやるべきことをやろうとして徹底的にがんばりすぎたのでしょう。
ラグビー界も外交上も日本は貴重な大樹をひとつ喪った。
この本の著者松瀬学氏の早大プロップ時代のプレーもよく憶えています。前著「早稲田ラグビー再生プロジェクト」はとても好著でした。
「宿澤広朗〜運を支配した男〜」加藤仁著 をほとんど一晩で一気に読みおえました。
(故)宿沢氏といえば「(スポーツ推薦ではなく)一般入試から早大政経学部に入学し一年生でレギュラー」「日本代表伝説のスクラムハーフ」「W杯で日本が唯一の勝利した監督」としてしか知らなかったが、住友銀行の全戦全勝のディーラーとして名を馳せる一流の銀行マンで専務取締役(!)やがては頭取と目されていたそうです。「脳まで筋肉」のスポーツ○カではない、ラグビー+銀行と両方で頂点を極めることのできるひとも世の中にはいるものなんだと驚いた次第です。
『早稲田スポーツの目指すべき理念は、英国同様スポーツを通じて各界のリーダーを育てることにあるべきだ。強いだけではダメだ。常に理念を意識して継承していかなければならない』のだそうでスポーツ活動により自分は従来の経営トップとは異なるリーダーとして養成されたという自負が宿澤氏にはあったようです。
一橋大学の理念 Captains of Industry 、早稲田ラグビーはそれと同じようなものらしい。
この本の記述で一点だけ訂正したいところがあります。
ラグビー日本代表の監督としてワールドカップでジャパンがジンバブエに勝ったとき、テレビ解説をしていた日比野弘さんが「宿澤くんおめでとう」といったと書いてありますが、これは間違いです。「シュク、おめでとう!」といったのです。私はリアルタイムできいていてはっきり憶えています。(どうでもいいことですが)
残念!勝たなければならない試合だった。
Fijiといえば第一回W杯で従来のラグビーのスタイルとは異なる自由奔放なハンドリングで世界中を驚かせた。フォワードバックスポジション無関係に縦横に走りまくり、テキトーに放っているかのように見えるめくらパスにどこからともなく湧き出るような分厚いフォローでボールを落とすことなく継続する、、、。「フィジアンマジック」と称されセオリーどおりではないため相手は翻弄されていきなりベスト8になってしまったのだった。しかしその後、NZ等他国との交流から妙に「洗練」されてしまったことで奇想天外な強さはなりを潜め、高い身体能力から出る個人技には優れているものの組織だったディフェンスやセットプレーには難があるため、日本としては組し易く16年ぶりにワールドカップで勝てるチャンスだったのです。
今日のゲームは、ブレークダウンから日本がターンオーバー、ドライビングモールからのトライ、と力負けしている試合ではなかったが、専門職のSHが2人も怪我で欠いてしまったことは本当に残念でした。次のウエールズ戦、カナダ戦まで間に合うかな。
ノーサイド直前のワンプレーが途切れず久々に熱くなったが、本当にあと一歩及ばなかった。日本人の私としては今回日本の指揮をとってくれた元オールブラックスのスーパーヒーロー、J.カーワンに申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
夜中の一時半にビデオチェックして早朝観戦したおかげで今日はひどい寝不足、、、。
「この低さをみよ。足首を刈られ大男たちは顔をしかめ、地に伏した」
ほれぼれするような一枚の写真をみつけて、ラグビーマガジン別冊盛夏号のタックル&ディフェンスの技術解説本を思わず買ってしまいました。
このタックル(元日本代表梶原宏之)のすごいところは、右肩が相手の膝下にはいったうえ左手が相手の足首を引き倒していることなのです。しかも小型フランカーが「俺にはこれしかない」とやっているのとは違い,彼は190cmもある大型フランカー、これをくらって倒れない相手はいない。外国の大型選手に突き刺さりまくったのでした。
「試合の空気を一変させることだってできる。勇気、読み,技術。そのすべてが凝縮されているのがタックルだ。15×15人で成り立つ試合のなかで繰り返される1対1の攻防。誰かひとりがそこで負けたら,積み上げてきたものが一気に崩れ去ることだってある。タックルは,ピッチに立つもの全てが追う責任。真のラガーマンになりたいなら極めるしかない。」いまになって私がタックルのイメージトレーニングをしても仕方のないことではありますが、その通りです。
トライ数でギネス記録をもつフィニッッシャー大畑大輔をけがで欠いてしまったカーワンジャパンにはぜひ頑張ってもらいたいと切に願うものであります。
かねてからサッカーとラグビーではレフェリーが指さす方向が正反対なのと同様、フォワードとバックスが正反対の働き(ラグビーはバックスが攻撃的サッカーはフォワードが攻撃的)をするのだなあと思っていました。それは正しいのですが、さらに今日は我が子の右サイドバックというポジションをみていて新たな発見をしました。
サッカーでのバックスといったらボールを外にけりだすだけのつまらないポジションなんだろうと誤解していました。そうではなくディフェンシブな役回りとして自陣に迫って来た相手の攻撃をカットすることはラグビーでいえばボールを持って走ってくる相手に真っ先にタックルにいくのと同じです。そして相手から奪ったボールを自分が持って攻撃に転じライン際から前線に供給、あるいは場合によっては自分で持ち込んでもいいのです。そうやって自分次第でプレーを創造できるうえ持ち前のスピードを生かせるとてもアグレッシブなポジションなんだということがわかったのです(サッカー関係の方からは「そうじゃない」とお叱りをうけるかもしれませんがド素人の無責任な感想ですから構いません)。
そんなことから「右サイドバック」は私のかつての背番号7「右フランカー」と非常に似ているのです。私は自由に動ける自分のポジション右フランカーがとても気に入っていました。
本ブログ読者だという隣県にいる後輩N先生がワセダラグビー部公式カレンダーというのを送ってくれました。ありがとう!
かつてラグビーといえば大学選手権が1月3日にあり、その優勝校が社会人の優勝チームと1月15日成人式の日に日本選手権をかけて戦い日本一をきめてその年のシーズンが終わりました。ところがここ数年それが2月下旬にまでずれこむことになってきました。
(自称)ラグキチおばさんから「さあ秩父宮にきたぞ〜!」というメールがきてテレビと2元中継となりました。「今のトライは私の目の前!あんなのアーリータックルだ!○○潰せ〜!!!」なんて盛り上がっています。画面に映ったらこちらからも手をふってやろうと真剣に客席をみてしまいました。
試合はといえば、東芝薫田監督、トヨタ朽木監督ともにこのゲームを最後に勇退をきめているので選手はその餞としたいのは当然。ファイトが横溢する場面もありましたが、さすが両チーム技術力の高いハイレベルなゲームでした。トライには結びつかなかったものの東芝ゴール前でのトヨタバックスラインのダブルループは美しかった。結果は「当たりがち」していた東芝に軍配があがりました。トヨタのゴールがきまっていれば、、、との声もありますが、トライ数3−1では完敗といえるでしょう。東芝富岡主将の公約どおり薫田監督が10回宙に舞ったとのことです。K子さんの携帯のカメラが具合悪かったのはとても残念でした。来年は新しいデジカメでリアルタイムな写メールでブログ映像待ってます。
そういえばJAPANの新監督がなんとあのオールブラックスのJ.カーワンには驚きました。サッカーでいえばジーコさんみたいなものかな。カーワンといえば第1回ラグビーワールドカップの対イタリア戦、自陣ゴール前からカウンターアタックでイタリアディフェンスを切り裂き、90m独走トライをきめて世界中を驚かせた男です。あのトライはほんとにすごくて今でも瞼の裏にやきついています。彼はとても日本びいきで基礎をしっかり作ったらあとは清宮氏に渡す.外国人監督は自分が最後、といってくれているそうです。ぜひ強いJAPANを作ってほしいものです。
この夏、子供たちのサッカーの大会のために勝手知ったるラグビーのメッカ菅平に行くことになりそうです。そっと抜け出し、やまびこ山荘での日本代表の合宿もしくは早大合宿所に練習をみにいくつもり。日程があえばいいが、これはとても楽しみ。
K子さんが「今、秩父宮ラグビー場にトップリーグ決勝を観に来てま〜す」というメールをくださいました。
今日の決勝はバックスタンド通路まですし詰め状態で大変なのだそうです。
K子さんはコアなラグビーファンで観る眼も鋭い。社会人大会の観戦が主流だそうです。
私たちの青春時代は本当にラグビーが人気で当時女子大生はみんなラグビーファン(だと思っていたのは私ひとりかもしれません)。昨今のサッカー人気もなんのその彼女がラグキチを20数年間持続しているのはうれしい限りです。
先日、私が観そこねた「情熱大陸:早大監督中竹竜二」のビデオも送ってくれました。私は5回みました。とてもよかった。K子さんありがと〜!
一見普通のサラリーマン然とした彼だが、一流企業を退職し早稲田の監督を引き受けた中竹氏。
シーズンはじめクラス別チーム編成のメンバー発表をきいて「なぜ自分が下位チームになるのか、納得いく説明をしてください」と監督室に問い質しにくる4年生。皆人生を賭けているのです。
赤黒ジャージを着て満員の国立競技場にたてば「タックルにいって死んでもいい」と思うにちがいありません。ラグビーとはそんな「真剣勝負」なのです。
早稲田が大学選手権決勝で関東学院に敗れたあと中竹監督が選手を集め「今日負けたのは全て監督である俺の責任だ。本当に申し訳ない、済まない」と言ってた言葉をきき、思わず私も目頭が熱くなってしまいました。
私は高校生の頃「キックオフワセダ‘77東伏見ドキュメント早稲田ラグビー」「熱闘早稲田ラグビー 荒ぶる魂の記録」という写真集を手にして以来30年来の早稲田ラグビーファンです。東歯と早稲田の2択で実際に受験もしましたしラグビー部現役時代は東伏見に何度も足を運び練習を間近でみて「展開力ある小型フォワード」の練習を研究したりしたものでした。
サッカー人気に押されマイナーな競技に成り下がったようにみえ、ここ数年我々元ラガーメンとしては残念だったのですが、今日の満員御礼の秩父宮ラグビー場はラグビー人気復活の兆し。溜飲が下がる想いです。
JPRで思い出しました。1980年学1の夏休み。いくつかのアルバイトの結果を握りしめてイングランドへ渡りケンブリッジで2週間ホームステイ。その後スコットランド、ウエールズへ足を伸ばしてきました。ウエールズといったらラグビーの聖地カーディフアームズパーク。運良くその日はラグビーユニオンの100周年記念だかでイベントがあったのでした。ラグビーウエールズ代表対サッカーウエールズ代表というメンバーで「サッカーの試合」なのです。
それにしても考えてもみてください。例えばラグビー日本代表、あるいはプロ野球選抜の11人でチームをつくり、サッカー日本代表チームとで「サッカーの試合」ができるでしょうか!?
ウエールズは国を挙げてのラグビーキチガイ。男たちは全員ラグビーなのです。ということはウエールズ代表ともなるとトップアスリート中のトップアスリートばかりなわけでサッカーをさせてもかなりなレベルでできてしまうようです。スコアは2−0だか2−1だかでサッカーⅪが優位でしたが、決してワンサイドゲームではないのです。
ラグビーチームのメンバーは、JPRやJJ以外にはキャプテンに自伝も出している名スクラムハーフ ガレスエドワース。他にもジェラルドデービス、フィルベネットなどいやはやなんとも凄いメンバーだったのでありました。あれっ,でも全員BKだなあ。20歳だった私がミーハーになり思わず現地の子供たちに混じってプログラムに書いてもらったJPRのサインです。
元ラグビー日本代表右フランカー石塚武生氏。170cm71kgとごく普通の体格ながらタックルの激しさは超一流。'80年代当時世界一といわれたウエールズ代表の快速ウイングJJウイリアムスをブラインドサイドからのバッキングアップでゴール寸前で阻止し、190cm95kgの大型FB、JPRウイリアムスを一発のタックルで仰向けに倒した。外科医でもあるJPRが自分の腰に食らいついてきた小さな男を驚いて見た姿が印象的だった。「小よく大を倒す」ことに憧れる私は、コマ送り連続写真やビデオを何度も何度もみて彼の走るコースをイメージに焼き付け、タックルバッグではなく腕が回らないくらい大きいダミーを何本か並べて連続して倒したり、あえて条件の悪い炎天下や雨の日に坂道ダッシュを繰り返すといった独特の個人練習をまねた。そして念願の石塚氏と同じ背番号7をいただいた(今思えばスポ根マンガのマネっこのガキみたいだ)。
そんなこと私はすっかり忘れていましたが、大学時代の後輩が全国各地をまわっている石塚ラグビー教室にいって著書を差し出し自分ではなく私の名前を書いてもらってくれたそうです。ありがと〜。
明治のヘッドコーチが、41歳白髪頭に口髭の中年オヤジになった藤田剛氏になっていて驚きました。試合前インタビューで「なんといっても明治はフォワード。今日はスクラムトライで勝ちたい」といっていました。19歳で史上最年少の日本代表になり「走れるフッカー」として長らくジャパンをひっぱったひとにしてもやはり明大に戻ればメイジラグビーにこだわるのです。
対する早稲田の監督は中竹竜二氏。バックロー陣の名門ワセダらしく激しいタックルとしつこいディフェンスをする素晴らしいフランカーでした。「今日がフォワード勝負。フォワードで走り勝って凌ぎバックスでつきはなして勝つ」といっていました。やはり大学ラグビーは勝敗はもちろんですが、伝統のスタイルをいかに継承できるか、がテーマなのです。
試合はSH矢富FB五郎丸のトリッキーなプレー、そして伝統の早くて長くて正確なパスとスピード感あふれるBKのライン攻撃のワセダ。対して個人技とパワーでディフェンスラインをこじ開けていくようなメイジ。前半はスコアだけでいえばワセダの大幅リードとなってしまいましたが、圧巻はなんといっても後半終了間際。ようやくエンジンがかかったメイジの怒濤の猛攻で自陣ゴール前のワセダボールのラック。明治バックスのディフェンスラインはゴール前2m(あんなのみたことない)。ノーサイド直前点差も開き時間もないのだからダウンボールしてキャリーバックに逃げてもいいようなものですが、そうしたら明治ボールのスクラムとなり「試合を捨ててもスクラムトライ」を許す危険がある。そこで早稲田はノックオンの危険も顧みずインゴールでオープンにまわしカウンターをしかけて凌いだのでした。いやあ凄かった。
ラグビー人気が低迷し寂しい昨今ですが、満員の国立競技場をみるとわかるひとはわかっていて眼の肥えたひとたちはちゃんといるんだなあと安心します。やっぱり大学ラグビーは健在です。
あえていうなら、提供のアディダスに媚びたような最近の薄っぺらいジャージはどうもなじめません。前夜に水杯をたたき割り塩で清めたジャージを涙ながらに受け取るのが早稲田ラグビーだとおもうのです。数年前、あるキャプテンの父親が息子に「明日はグラウンドで死んでこい。骨は俺が拾ってやる」という電報を送ったという逸話もあるほど。またハーフタイムにチアーリーダーがピーピーキャーキャー踊っているのも止めてほしいです。そんなサークル活動もあるのでしょうが、それはどこかよそでやればいいのに。ラグビーはアメリカ人の騒ぎとは違って馴染まないと思うのはわたしだけでしょうか。
それにしても今日は伝統と意地のぶつかり合う素晴らしい試合を見せてもらいました。
数年前から末っ子の長男がサッカー小僧↓になってしまったことで「私の楕円球への情熱はいずれコーチングスタッフとして復活する」という夢ははかなく消えてしまいました。
まあ私と彼とのキャラの違いもありますから無理強いもできず、しかたがありません。でも毎週末、子供たちのサッカーの試合を応援にいきテントの出し入れだけしてあとは手持ち無沙汰にボンヤリ過ごすというのは私の性分にあいません。何かしらやっていないとダメだと思い、春にサッカーの審判の免許をとりにいってきました。
そして地元伏木高校が12年ぶりの県大会決勝進出でわきかえっていた今日、アシスタントレフェリーとしてのデビューをさせてもらいました。サッカーのアシスタントレフェリーというのはラグビーでいえば(タッチにでたボールの地点をさすこととゴールの判定くらいしかない)タッチジャッジですが、サッカーではメインレフェリーと二人のアシスタントレフェリーの3人でジャッジするようなものでオフサイドとタッチの両方に眼をこらしていなければならず結構難しいのです。それはいいとして、困ることはフラッグをさす方向です。ラグビーでは「こちらサイドのボール」を指しますが、サッカーは「こちら側へ攻める」方を指すのです。つまりサッカーとラグビーはフラッグを揚げる手が正反対であるわけです。同じイギリスのスポーツなのにどうしてこうなのでしょうか。
ラグビーに慣れ親しんだ感覚をサッカーの流儀に切り替えるのは、例えていえばある日突然「青信号なら止まれ、赤信号なら進め」に切り替えるようなものですから、これは結構大変なのです。私は試合中ずっと「逆、逆、逆、、」と念じながら走っていました。
私にとってサッカーはあと1年だけですが、勝手に目論んでいることはゲームセットのときピッピーッ!と笛を吹き「ノーサイド!!(ラグビー用語で『ゲームオーバー』の意)」と叫ぶことです。
さてこのチームには私が密かに注目しているフォワードIくんがいます。私はサッカーの細かいテクニックのことはよくわかりませんが、彼はボールさばきがあまり巧くない分、相手に身体ごとぶつかって行くのが好きなようで、特にゴール前になると相手をボールごと蹴り飛ばさんばかりの勢いで猛突進し闘争心を全面に押し出す姿勢をみせてくれるのです。トライゲッター(ストライカーというのかな?)として重要な資質です。でもサッカーでは練習中仲間から嫌われるだろうしコーチからは注意される、今日も試合でペナルティーをとられ注意をうけてしまいました。
私が彼にいいたいのは「いいね〜。ラグビーならお前のプレーは反則でもなんでもない。むしろ『ナイスファイト!』と褒められるぞ。もっと思いっきりいってもいい」
いずれ彼にはラグビーに転向するよう耳打ちしようと思っています。
「セピア色」の話ですーーー
ALL TDC v.s. シンガポールクリケットクラブ戦。
敵陣10m付近での左オープンでの相手ボールのラインアウトだった。
こぼれたボールが最後尾にたっていた私の目の前に転がってきた。すかさず拾って走った。
スタンドオフひとりをかわすとアタックラインをひいていた敵の無防備なライン裏はガラ空き。無人の芝の先に白いゴールラインがみえ、歓声が耳に届いた。しかし、右からブラインドサイドウイングが追ってくるのが視界にはいった。「ダメだ、走りきれない、、、」。そこへフォローしてきた味方の現役学生スタンドオフの声が背後から聞こえた「右〜!!」。私が大事なボールをパスしたら相手タックラーは目標を変えた。
ワンツーですぐにリターンパスをくれれば、思いっきり飛び込んでダイビングトライだ。私は必死で叫んだ「返せ〜〜〜〜〜!!!」。だが捕まりながらのリターンパスは一瞬遅く、私の手にボールが渡ったときスローフォワードのホイッスルが鳴った。
「バ〜ロ〜〜!早く返さんかい!!」そしてノーサイド
20年たったいまでもあのシーンを夢にみることがある。
1986昭和61年ですから卒後3年めだったでしょうか。
わが東歯ラグビー部創部20周年記念事業の一環としてシンガポール遠征を行いました。現役チーム、OBチーム、そして現役OB含めた選抜チームによる3試合を行いました。その模様が掲載されたラグビーマガジンです。
訪ねた「シンガポールクリケットクラブ」は創立100年以上の超名門クラブ。足首まで埋まるような芝のグラウンドはボールが転がりでたら国会議事堂の前というすごいロケーションです。メンバーは大半がイギリス人。人種差別は厳然と存在し、やはり「ラグビーは紳士のスポーツ」なのです。フィフティーンのうち10人がシンガポールのナショナルチームメンバー。前回闘ったチームはかの神戸製鋼(!)だというではありませんか。
我々は現役10人にOB5人のの選抜チーム「ALL TDC」を編成し、私もそのメンバーにいれてもらうことができました。当時勤務医だった私は、診療後毎日猛特訓を自らに課してフィットネスは現役時代以上の最高の仕上がり。私はOBながら観光ではなくあくまでも「試合」に行ったのでした。
昭和57年(古い話です)。菅平での夏合宿で名古屋からきたある大学と練習マッチを行いました。スコアは忘れましたが圧勝でした。試合後、相手チームの老監督がこちらにやってきて「歯医者さんの大学だっていうからどうせたいしたことはないだろうとタカをくくっていたらあまりに強くて驚きました。練習にもならなかったでしょう?申し訳ない。あんなに走ってボールを繋げるチーム、どんな練習されているのですか?」といわれました。
ちょうどそのとき傍らにベースボールマガジン社の記者がいて黙ってそれをきいていました。そんなことから依頼があって書いたものです。
そしてこの後、公約どおり真の「黄金時代の復活」を遂げたのです。
数年後、創部20周年記念シンガポール遠征をした後、オール東歯の試合の模様も掲載されたのですが、残念なことに掲載誌を紛失してしまいました。お持ちのOB(もしくはOG)ありませんか?もしあればぜひ私のところまでご一報お願いします!
我々東歯ラグビー部は年間合宿日数が100日以上に及ぶため、一年の1/3はともに寝食することになります。
その間食事の準備は衛生士校1、2年生からなるマネージャー嬢たちによるものでした。他にも自分でプレーをするもっと楽しげなクラブがいくらでもありそうなものなのに、なぜこんな大変なラグビー部のマネージャーなんかするんだろうと当時不思議に思っていました。2〜3人の若い女の子の手だけで20〜30人もの食事の用意をするのはさぞかし大変だったでしょう。
今回のOB会にはMさんがいろいろ根回しをしてくれたおかげで、私の学年前後の多くのOGが加わり華を添えさらに大盛り上がりしました。
これまで平穏無事に20数年過ごしてきたひともいれば波瀾万丈だったひともいるに違いないのですが、「昔ギャル」も20数年も経つと、、、、なんて無礼な心配とはうらはらに皆外見は当時とあまり変わらないように見えて、それが不思議にさえ思えました。みんなご覧のとおりとっても素敵なお姉さん(!?)たちばかり!!
「○○ちゃん、当時、元祖巨○だったよな!」なんて酔っ払い中年オヤジどものセクハラ発言連発も柳に風と受け流す肝っ玉の大きさ。いいね〜!
それにKFさんが私と同じく格闘技オタクなのにはうれしくなりました。
そういえばOGのなかの2人から「うちの娘が高校生になり、私の知らないうちにラグビー部のマネージャーになってたの。なんだかなあ」なんて話もききました。部員と同じく娘もやはりお母さんをみて育つのでしょうか。
終始大笑いが絶えない全員ハイテンションのなか、昔どうしたのこうしたのというどうでもいい話が朝方まで続いたのでした。
あ〜〜楽しかった!!やっぱ東歯ラグビー部最高!!大好きっ!!
N先生。口外大学院生当時、我々部員が鬼と恐れる先輩コーチだった。土曜の夕方、厳しい練習も終盤ポプラ並木に夕焼けが落ちはじめるころにようやく現れ、それから猛特訓が課せられた。ゴールラインを境にFW数名ずつボール争奪戦(ほとんどケンカ)、負けると100mダッシュの罰。それが延々続いた。そんななかからゴールラインを目にしたときの緊迫感や闘争心が叩き込まれ、根性練習が奏功して走って闘う小型FWが鍛え上げられた。
そのN先生がマイクを握って「私は二人の息子たちに小さい頃からラグビーを教えてきた。そして今、こいつらが後輩部員として一緒に今日のゲームを語る。こんな幸せなことはない!」
自慢する父、はにかむ息子。実にいい光景でした。
東歯大ラグビー部創部40周年記念OB会に100名程度参集しました。
みんな現在は各地の歯科医院院長のみならずいろんな分野で活躍しています。日本歯科医師会理事、県歯担当理事や専務、市歯科医師会会長、国立大学医学部教授、大学同窓会担当理事、セミナー講師、全国レベルでの研究会コアメンバー、インプラントセンター主宰、いくつもの事業を幅広く展開している事業家etc. 皆尊敬するべき先輩後輩たちです。
学生時代特に優秀だったとかまじめに勉強していた者は(多分)いませんが、情熱を傾けるフィールドがグラウンドからそれ以外に転じたにすぎないと思えば何も不思議ではないようにも思えてきます。
「あのときお前がゴール前でボールを落としたから負けたんだ」
「それにしてもあのときはすんごいタックルだったよなあ」
「あいつは血の気が多すぎるので俺がキックする前『オフサイドに気をつけろ』とだけ言ったんだ」etc.
40代50代60代のおじさんたちがお互いに相手をみるなり学生時代にタイムスリップして童心にかえり、20年も30年も前のことをつい昨日のゲームのように語る様は実に楽しいものでした。
この先10年後20年後その先もお互い生きている限り同じように昔の思いで話で盛り上がるのでしょう。
とても幸せなことです。
「私は6年間ラグビーに完全燃焼できた自分をほこりに思い自分に対する自信の裏付けとして生涯の財産としている。もう一度男に生まれることができたなら、魂が一番熱い時にぜひまたラグビーをやりたい」
〜東歯大ラグビー部35年記念誌拙文より
私の生涯最後のラグビー公式戦は2ヶ月後の目前に歯科医師国家試験を控えた1984 12.29 オールデンタル決勝の舞台でした。
調べたひとによれば最後のシーズン公式戦の総得点累計183点、総失点累計6だったそうです。ほんとに強かったでしょう!?(←かなり自慢!!)
あれからもう22年。久しぶりに現役学生の公式戦関東医歯薬リーグを観戦しました。ラインアウトにリフティングがあるなど我々の頃とはルールが少し変わったこと、ラグビーのジャージといえば引っ張っても破れないように厚手のごついものときまっていたのに最近は薄手の生地で半袖にと様変わりしました。でも昔と変わらぬスクールカラーのジャージをまとった若者たちがボールを追う姿には感慨深いものがあります。男の子たちはこうして鍛えられてゆくのです。
ここ北陸の冬は天候が悪いと相場がきまっていて「ウインタースポーツの華」ラグビーは馴染みにくいことや、昨今の世界レベル全国レベルでのサッカー人気に加えて我が子がサッカー小僧になってしまったことから、ラグビーにふれる機会はほとんど無くなっていました。でもボールを持って突進してくる相手に躊躇なくタックルにはいる様は今見ても心が熱くなるし、バックスのラインは生き物のようにもみえて流れるパスワークは美しい。やはり我々元ラガーメンにとってラグビーのかっこ良さは格別なのです。
かといって今ここ↑に加勢してボールを奪いに行けといわれても少し尻込みしますが、、、。歳とった。